すっかりごぶさたしてしまいました。ハセヤマです。
以下、長くなりますので、お暇な時に読んでくださればと思います。

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このたびの地震、幸いにも私の住んでいる周辺は大きな被害も無く、現在は大きな不自由なく生活しております。
3月11日は朝から大雪。前任校の卒業式に出席していました。証書授与、式辞、送辞、答辞などとどこおりなく進行し、クライマックスの卒業生合唱となったとき、会場のあちこちで携帯電話が鳴る音が聞こえました。その時はエリアメールだとはすぐに気付かなかったので「式の最中に電源切っておかないなんて・・・」と眉をひそめていました。その直後、揺れが来ました。最初はゆっくり、まもなく大きな揺れに変わりました。厳粛な式の最中ということで、会場の全員がすぐには動かず、少しきょろきょろする程度だったのですが、すぐにこれはただことではないと動揺し始めました。教職員も動揺していたとは思いますが、冷静に生徒にしゃがんで椅子の下にもぐるよう指示を出していました。私も来賓席のテーブルの下に近くの生徒数名をもぐらせ、側にしゃがんでいました。
揺れが始まってしばらくして、明かりはすべて消えました。立てかけていた鉄棒が倒れ、ガラスが割れ、壁にヒビが入って壁材がバラバラと落ちてきました。ぶらんぶらんと頭上で揺れる照明が今にも落ちてきそうで怖かったです。あちこちから上がる悲鳴。泣き出す生徒もいました。卒業生は、ステージ上のさらに合唱用ひな壇上という不安定な場所に整列していたところだったので、バランスを崩して落ちた子も(怪我はありませんでした)。地震のショックで貧血になった子もいました。
揺れがおさまったら式の続きをする、と教頭先生の方から連絡が入ったものの、余震がずっとおさまらず、水も電気も止まって暖房も作動しないということで、続きは後日ということになり、卒業生は保護者と一緒に帰宅、在校生も安全を確認しつつ下校ということになりました。卒業式後に行われることになっていた祝賀会もおそらく中止だろうということで、職員も帰ることになりました。
地震後、一瞬だけ携帯電話が繋がり、母とお互いの無事を確認する連絡はしていましたが、まず実家へ向かいました。ひとりでアパートに帰るのがこわかったこともあります。帰り道、大雪が降っているため前が見えづらいうえに、信号がとまっていたので、運転はとても緊張しました。実家では、リビングの床に母のコレクションの土鈴の数点が割れて散らばっているくらいで大きな被害はなかったようです。電気は止まっていましたが、普段から反射式のストーブを使っているため、お湯と暖房には困りませんでした。水もとりあえずは大丈夫なくらい貯めていました。とりあえず着ていた礼服を脱ぎ、実家にある適当なジャージとパーカーに着替えました。
その後、夫と災害伝言板でお互いの無事を確認。ラジオでは「震度7」「大津波」「数百人の遺体」など、とんでもないことがおこってしまったことを途切れなく放送し続けていました。気仙沼に住んでいる伯母の安否が気になりましたが、どうすることもできないまま夜になりました。
夫は帰社後アパートに行き、非常食を持って私の実家に来ました。夕食は反射式ストーブでうどんを温めて食べました。その後、一人暮らしの祖母の様子を私と夫とで見に行くことになりました。近所の人たちが普段から面倒を見てくれているので大丈夫だとは思うけど、やはり心配なので。車で片道40分くらい。途中、国道の主要な交差点は信号が生きていましたが、ほとんどは作動しておらず、慎重に進みました。一時停止したとき何度か余震が体に伝わってくるのがわかりました。祖母はひとりで家にいて、電気ストーブとローソクのあかりのもと、読書をしていました。案外大丈夫そうでしたが、実家に連れて行くことにしました。帰り道も、電線が余震で縄跳びのように揺れているのがわかりました。
その後私と夫はアパートに戻りました。アパートは幸い水が止まっておらずLPガスだったので、お湯を沸かしてお茶を飲むことができました。灯油はあるものの停電のため温風ヒーターも使えず、ガス給湯器も電源が入らないとどうしようもないためお風呂も×。もこもこ厚着をして早く寝ました。余震と寒さのため、ほとんど眠れませんでしたが。

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長くなったので、以下簡単に。
3月12日。災害用品の買い出しに数店のスーパーや家電ショップをまわる。どこも行列なうえに主要なものは昨日のうちに完売してしまったという状況だったので、我が家では今あるものや食料を駆使してなんとか数日を乗り切ることにする。アパート近くのGSで灯油1缶と10リッター限定でガソリンを入れてもらって帰宅。停電のため、ガソリンスタンドでは手回し方式で給油。実家に反射式ストーブが2つあったので1つ借りたが、灯油節約のため夕方より使用。
夜7時すぎ、電気復旧!すぐにテレビをつけたときに見た映像は大津波。あまりの惨事に、言葉がでない。私の実家も電気が復旧。でも水はまだとのこと。夫の実家に電話をしたら、まだ停電中とのことで、反射式ストーブを車に積んで持って行く。八戸の義妹とその子供2人が来ていた。避難ではなく、昨日こちらに用事があって自動車道を走行中地震に合ったとのこと。地震後自動車道が閉鎖され、途中から普通道路で来たようだ。義弟は会社の支店で被害のひどいところへ救援に行っていた。私たちが帰る頃、夫の実家でも電気が復旧。結局ストーブを持ち帰る。余震はまだまだ頻繁。

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その後、気仙沼の伯母とは地震後まもなく連絡がつき、今は伯母の妹夫婦のところに避難してきています。スーパーの品不足や燃料不足など不便なことはいまもなお続いてはいるものの、ものすごく困った!ということは無く、なにより被害の大きい地域にいる人たちや原発の近くに住む人たちに比べたら、まったく何の問題もありません。こんな時なのに来年度の仕事の面接があり、ガソリン残量わずかでちょっと遠い所まで往復したときは焦りましたが、その後無事給油もでき、面接も合格しました。
あれから2週間以上が過ぎましたが、まだまだ被災地では大変な状況が続いています。昨日も今日も大きな余震がありました。原発問題もあります。これから日本全体がどうなっていくのかとても不安ですが、今はわたしにできることを精一杯やりながら、被災地のみなさんの笑顔の時が日々少しでも増える事を祈っています。

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2000年からホームページやブログで文章を発信することをしてきましたが、自分のやりたいことはもう大体やり終わった感があるので、いったん区切りをつけようかと思います。もしリンクやブックマークしてくださっている方がおりましたら、はずしてくださって結構です。いつかまたこういう形で表現したいなと思う時がくるかもしれないので、そのときはまたよろしくお願いいたします。
そのかわりといってはなんですが、始める気のなかったTwitterをほそぼそと始めておりました。情報収集やいろいろな人の考え方を知るためのツールとして使っていますが、たまにつぶやいたりもしています。アカウントは「 hana_kaorin 」です。

それでは。今までありがとうございました。